聖のところへ行ってから、なかなか帰ってこないさくら。
心配になった旭はさくらを探すことにした。さくらが行きそうなところを探してみたが、見つからない。
もしかして、まだ聖の部屋にいるのかもしれない、そう思った旭は確かめるためにそちらへ足を向けた。聖の部屋のドアをノックする――しかし返事がない。
「失礼いたします」
ドアを開けると、壁際で座り込むさくらの姿が目に飛び込んできた。
「さくらさん、どうしたんです? 聖様はどこへ?」
聖の姿はなく、彼女だけがいることを不思議に思った旭は、さくらに問いかけた。
そして、さくらの泣き腫らした顔を見た瞬間、旭は悟った。聖と何かあったな……。
旭は小さくため息をつき、優しくさくらに声をかける。
「何も言わなくていい、とにかく一旦ここを出ましょう」
さくらを立たせようとするが、足に力が入らず立ち上がりにくそうにする姿を見て、旭はさくらを抱き上げた。
「ひぇっ」
さくらは驚いて変な声が出てしまった。
まさか旭にお姫様抱っこをされる日がくるなんて、思いもしなかった。さくらが旭を見つめると、旭もさくらを見つめ返す。
「暴れると運びにくいので、じっとしておいてくださいね」
旭は軽々とさくらを抱え、颯爽と聖の部屋を出ていった。
注いだばかりの熱々の紅茶が、そっとさくらの前に置かれた。「温まるから飲みなさい」
ここは旭の部屋。
涙で腫れあがった瞼に、悲壮感たっぷりの表情をしたさくらを何処に連れていけばいいか迷い、旭は自室で休ませることを選んだ。
「何があったか知りませんが、落ち着くまでここにいるといい」
旭は自分も一息つき、紅茶を飲む。
さくらもそれにならって紅茶を一口飲んだ。
紅茶の温かさと共に、気持ちもほぐれていくようなその感覚に、さくらはほっと息をつく。「すみません、ご迷惑をおか
某ホテルの一室。 さくらは何をしようかと思案していた。「さくら!」 突然、いきおいよく扉が開かれる。 部屋でくつろいでいたさくらは、目を丸くして突然現れた聖を見つめた。 さくらに駆け寄った聖は、おもいきり抱きついた。さくらはその勢いに押され、後ろにあったベッドに倒されてしまった。「聖様……」 さくらは突然の出来事に、呆然と聖を見つめる。「会いたかった」 聖がさくらをきつく抱きしめ、二人はベッドの上で抱き合う形となった。「父上に酷いこと言われたんだろ? ごめんな」 聖は苦しげな表情をし、さくらを見つめる。「……いいえ、旦那様は聖様のことを想ってされたことですから。私は平気です」 さくらが微笑むと、聖は愛しそうにさくらの頬に手を添えた。 二人は見つめ合い、そのままゆっくりと顔が近づいていく。「お楽しみのところ申し訳ありませんが、私もいること忘れないでくださいね」 その声に反応した二人は慌ててお互いの体を離す。そして、いそいそとベッドから降りた。 部屋へゆっくりと入ってきた旭に、申し訳なさそうな顔を向ける聖。「旭、すまない。さくらに会えた喜びで、すっかり君の存在を忘れていた」 聖は真っ赤な顔で、照れた様子で下を向いた。 そんな聖のことを、さくらは幸せな顔で見つめている。 そんなさくらの様子に、ほっと胸を撫で下ろした旭は優しく笑った。 この部屋は、旭がさくらのために用意したものだった。 屋敷からほど近い場所にあるホテル。そこにさくらは身を隠していた。 聖が屋敷を飛び出し、さくらを探していたあの日。旭もさくらを探していた。 旭はさくらが好きそうな場所を巡ってみたが、なかなか見つからず。次の手を考えていた。 そのとき、昔さくらが海を見るのが好きだと言っていたことをふと思い出した。 旭は付近の浜辺を捜索していく。 す
その日は夜も遅く「明日さくらに伝えなさい」と智彦に説得された聖は、素直に次の日を待つことにした。 朝が来て、さくらの喜ぶ顔を想像しながら聖は彼女を探した。 メイドの朝は早い、もう起きて仕事に取り掛かっている頃だろう。 今の時間は厨房にいるかもしれない、そう思った聖は厨房へと急いだ。 厨房では、朝食の支度をするコックやメイドたちが忙しそうに走り回っている。 声をかけづらい雰囲気に、どうしたものかと考えあぐねいていると、「聖様、どうされましたか?」 旭が声をかけてきた。「旭、さくらは何処だ?」 「はい、私も探しているのですが、見つからなくて。部屋にもいませんし、いつもならもうここへ来ているはずですが」 旭の心配そうな表情を見ながら、聖はなんだか妙な胸騒ぎを感じた。 まさか、そんなわけないと思いながらも、聖の足はある場所へと駆け出した。 隣の部屋ではメイドたちが忙しなく、朝食の準備を整えている。 その音を聞きながら、智彦はいつものようにソファにゆったりと腰かけ、新聞に目を通していた。「父上!」 聖が血相を変えやって来ると、そのことをわかっていたかのように智彦はいつも通り対応した。「何か用か?」 智彦は聖を見ようとしない。 聖はさらに嫌な予感が膨らんでいくのを感じ、ゴクリと唾を飲み込んだ。「……さくらは、さくらは何処ですか?」 智彦が新聞を畳んで、机に置く。 ゆっくりと聖に向き直ると口を開いた。「この屋敷に、さくらはもういない」 聖には、その言葉の意味がわからなかった。「どういうことです!」 聖が叫ぶと、智彦は冷酷な目と声で告げる。「さくらはこの屋敷から出て行った」 その瞬間、聖はすごい速さで智彦の側まで近づいていく。 そして智彦の胸ぐらを掴み、立たせる。 聖の瞳は怒りに満ちていた。
その一部始終を見ていた梨華が、ショックで泣き出してしまう。 すぐに梨華の父の怒りが爆発した。「黒崎さん、これはどういうことですか! このような態度は、梨華を侮辱したも同然! これがどういうことかわかっているのか!」 娘を侮辱された父親の怒りほど恐ろしいものはない。 智彦はどうにか相手の怒りを鎮めるように、努力することしかできなかった。「申し訳ありません、どうか穏便に。 聖にはよく言って聞かせますので。どうか今回はお許しを」 智彦は頭を下げ、謝り続ける。 しかし、梨華の父の怒りが収まることはなかった。 その夜、聖は智彦に呼び出された。「――おまえ、どういうつもりだ? 梨華さんは泣き出すし、御父上はお怒りで。もうこちらの話を聞いてくれない。 北条家との関係が悪くなったらどうしてくれるんだ! 北条家と繋がりを持てるなんて幸運なことなんだぞ! 梨華さんだってあんなに美しくて優しそうな方じゃないか。何が不満なんだっ」 智彦がいくら言い聞かせても、聖は聞く耳をもたない。 もう心は決まっている、というように。「さくらか……。あの娘がおまえを惑わすのだな」 智彦が少しの間、黙って何かを思案しているようだった。 そして、決定的な言葉が放たれた。「ならば仕方ない。さくらはこの屋敷から出ていってもらおう」 今まで黙っていた聖が急に叫んだ。「父上! そんなこと、私が許さない! そんなことをしたら、私はこの家と縁を切ります」 聖は冗談ではなく本気で言っているのだと、智彦にもすぐにわかった。 しかし―― 眉を寄せ、大きな息を吐いた智彦は聖を見つめる。「わからん、そこまでしてあの女と一緒になりたいのか? 父を裏切っても? この家を捨ててでも?」 智彦の問いに、しっかりと頷き返す聖。 その瞳には、何に
応接室には聖、梨華、智彦、そして梨華の父親がいた。 聖と智彦が同じソファに座り、その向いのソファに梨華と梨華の父親が座っている。 まさにお見合いの席、という空気感が漂っていた。「失礼いたします」 さくらが紅茶を載せたカートを押し、ゆっくりと四人の側へやってきた。 紅茶を持ってきたのがさくらだと知り、智彦と聖は驚いたが、客前なので冷静を装う。 しかし、聖はさくらが気になり目で追ってしまっていた。 それを梨華は見逃さなかった。 梨華は聖を見つめていた視線を動かし、さくらの方を見る。 その目は、何かを探っているようだった。 さくらは紅茶を注ぐと、カップを梨華の父の前にそっと置く。続いて、梨華の前にも置いた。「あなた、ここのメイドさんよね。……とても可愛らしい」 突然、梨華がさくらに声をかける。 思ってもみない梨華の行動に、さくらは驚き戸惑ったが、メイドとして笑顔を返した。「はい、黒崎家に仕え、六年になります」 梨華は驚いた様子で目を見開き、口元を手で隠した。「その若さで、既に六年も? 小さな頃からこのお屋敷にいらっしゃるのね……羨ましい」 梨華は少し落ち込んだように肩を落とす。 皆が不思議な顔をして梨華を見た。 注目された梨華は、少し照れたように頬を染めた。 その姿は本当に可愛らしく、女性のさくらでさえ見惚れてしまうほどだった。「いやだわ、ごめんなさい。メイドさんに焼きもちなんて」 そう言うと、艶っぽい眼差しを聖に向ける。 聖はそんな視線など見向きもせず、さくらばかり見つめていた。「私、幼き頃より聖様のことが好きでした。 この度、聖様の婚約者に選ばれて、すごく嬉しかったんです。 ……でも、こんな可愛いメイドさんがずっと聖様の傍にいたかと思うと、心配で」 梨華がため息をつきながら下を向く。 この空気はまずいと思った智彦が、すぐさ
そして、とうとうその日はやってきた。 聖の婚約者の北条(ほうじょう)梨華(りか)が屋敷へ訪れる。 梨華は不動産業界で名を馳せる北条家の娘。 北条家は不動産業界でもトップに君臨し、ホテル経営では右に出る者はいなかった。 彼女は聖と相応しい肩書の持ち主だ。 さらにはその美貌、彼女はとても美しかった。 黒く長い髪に映える豪華な髪飾り、華奢な体には着物姿がよく似合い、桜模様が彼女の女性らしさを際立たせている。 長いまつげに大きく丸い瞳、そして小さく真っ赤な唇。まるで日本人形のようだった。 とても女性らしく、儚げで、守ってあげたくなるような雰囲気を醸し出している。 なんであんなにすべてを持っている人がいるのだろう、神様は不公平だ。 さくらは心の中でそっとつぶやいた。 応接室へと続く扉の前にはメイドたちが群がる。 梨華を一目みようと、メイドたちが扉付近に集まっていた。 皆、そわそわと瞳を輝かせている。 さくらもその集団の中から、梨華の様子を眺めていた。「あれが聖様の婚約者ですって」 「まあ、可愛らしいこと」 「お似合いよねえ」 「不動産関係の財閥令嬢なんですって」 メイドたちがひそひそと話に花を咲かせていると、コホンと咳払いが聞こえた。「みなさん、仕事に戻って」 旭にたしなめられたメイドたちは、しぶしぶ持ち場へと戻っていく。「大丈夫ですか?」 旭がさくらに耳打ちする。「え? 何がですか?」 さくらは悟られまいと、わざと元気な素振りで振り返った。「いや、ほら、聖様の婚約者のこと」 旭は言いにくそうに眉をひそめる。「はい、大丈夫です。前からわかってたことですから」 さくらはニコッと微笑みながら答えた。 好きになったって、両想いになったって、現実はこれだ。 結局、結ばれはしない。 そんなこと、わかってた
屋敷の中を、一人のメイドが駆け抜けていく。 さくらは長い廊下を走りながら、ところどころで止まり、辺りをキョロキョロと見渡す。 そう、さくらは聖を探している。 専属が解かれたことを報告するためだ。 智彦の部屋を通りかかったとき、中から大きな声が聞こえ、さくらは足を止めた。「おまえは何を言っているんだ! 正気か?」 いつもは温和な智彦が、声を荒げ叫んでいる。 いけないことだとは知りつつ、どうしても気になったさくらはドアの隙間から中の様子を覗き見る。 そこにいたのは、聖と智彦の二人。 ただならぬ雰囲気でお互い睨み合っている。「僕は本気です、将来はさくらと一緒になりたいと思っています」 聖のその言葉を聞き、智彦は肩を落として大きなため息を吐く。「さくらはただの使用人だぞ。 おまえがさくらを気に入っているのは知っている。 遊びならいい、しかし結婚は駄目だ」 「なぜですか? 誰を選ぶかは僕が決めます。 それに、使用人だからって何だっていうんですか。結婚しては駄目な理由になどならない。僕たちは愛し合っているんです」 いつもは物静かな聖も、ここは引けないとばかりに智彦に喰ってかかる。 智彦は駄々をこねる子どもに、どうしたものかと悩む親のような顔をしていた。 そして、当主らしい顔つきになったかと思うと、はっきり告げる。「ここは黒崎家だ、一使用人の娘と結婚など許されない。 そういう家におまえは生まれたのだ。 私はおまえを愛している、もちろん勘当なんてできない。 いいか、よく聞け。人には身分相応というものがある。 聖には、婚約者を用意している。今度紹介するから、そのつもりでいるんだ」 智彦の一方的な発言に、聖は反論する。「そんなこと知りません! 僕はさくら以外の人と結婚など」 「黙れ! これは命令だ!」 迫力のある一喝に、さすがの聖も黙ってしまう。